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ビル・ゲイツが激賞した『コンテナ物語』著者が最新作『物流の世界史』でひもとく「長距離輸送はいかにして交易としてビジネスに発展してきたのか?」

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長距離輸送は太古から盛んだったが、すぐに交易として発展したわけではなかった(イラストはあくまでイメージです。Photo: Adobe Stock)

ビル・ゲイツが激賞した『コンテナ物語』著者が最新作『物流の世界史』でひもとく「長距離輸送はいかにして交易としてビジネスに発展してきたのか?」

 人類文明のごく初期から行われていたという物資の長距離輸送。しかし、それは長い間、「交易=ビジネス」には至らなかった。それが、どのようにして物品や奴隷、病気までもがやりとりされるようになったのか。ビル・ゲイツも激賞したロングセラー書籍『コンテナ物語--世界を変えたのは「箱」の発明だった』(日経BP)などで知られるマルク・レヴィンソンの最新刊『物流の世界史--グローバル化の主役は、どのように「モノ」から「情報」になったか?』から一部をご紹介する。 1764年、ロンドンから船で到着したばかりの貿易商ピーター・ハーゼンクレヴァーは、ニュージャージー北部の山奥へ冒険の一歩を踏み出した。世界を股にかけるハーゼンクレヴァーは、正真正銘のグローバリストだった。1716年にドイツ・ラインラント地方に生まれ、ドイツ語、フランス語、スペイン語、英語に堪能だったと言われる。若い頃は製鉄所で修行時代を過ごしたのち、ドイツの毛織物工場向けに羊毛を買い付け、できあがった製品を遠くロシアやフランスまで売り歩くようになる。 その後、ポルトガルやスペインに商社を設立し、工業化を進めるプロイセンのフリードリッヒ大王のもとで顧問を務めたりもした。1763年、成功して大金持ちになったハーゼンクレヴァーは、大西洋世界の覇者として急成長する大英帝国の中心地ロンドンに移る。70ポンドを払って英国議会から市民権を得ると、植民地にも投資できるようになった。そして起業家としての夢をかなえようと会社を設立。当時、世界最大の製造事業体だった英国海軍の造船所に、米国で鍛造した鉄を供給する事業を始めたのだった。 ハーゼンクレヴァーも共同出資者たちも、米国に渡るのは初めてだ。ニュージャージー植民地に購入した鉄鉱山は、地図で見るかぎりは繁栄する港町ニューヨークからわずか30~40キロと、理想的な立地に見えただろう。だが、いざ大西洋を渡ってみると、鉱山は入植者たちも寄り付かない険しい渓谷地帯の、深い森に覆われた傾斜地にあった。鉄鉱石は土砂と岩石と鉄のかたまりで、つるはしやシャベルで掘り出し、牛の引く荷車にのせ、水車を回せるだけの水量のある川の近くの製鉄所まで、何マイルも運んでいかなければならなかった。製鉄所では粉砕機で鉱石を砕き、高炉を使って無用の尾鉱を除去する。労働者は炉床や炉本体が発する高熱にさらされながら、溶けた鉄を取り出し、叩いて長さ14フィート一辺2インチの棒状に加工する。できあがった鍛鉄棒の一部は再び焼き溶かし、溶けた鉄に炭粉を浸透させて炭素鋼をつくった。 これらの棒鉄や棒鋼は、近隣の集落で使われる限り、鍛冶屋が馬蹄や火かき棒をつくるのがせいぜいだった。本格的な利益を得るには、棒鉄を英国の造船所に運ばなければならない。当時、国際貿易を手がける業者の多くは、外国製品が到着したのを確かめてから買い手を探していたが、ハーゼンクレヴァーは造船に欠かせない金属を確実に英海軍に供給する、長距離サプライチェーンとでもいうべきものを構想していた。それができれば英国のニュージャージー植民地も繁栄するだろうし、ハーゼンクレヴァー自身も英国経済界のエリートの列に加わるはずだった。 だが土地を購入したラマポ山脈には、鉱石を鉱山から製鉄所へ運ぶ道路も橋もなく、ハーゼンクレヴァーが設立したアメリカン社が独自に建設するしかなかった。英国人入植者はこんな奥地で製鉄のような危険でしんどい仕事をするより、農業のほうを好んだ。アメリカン社は大金をかけて熟練の石切職人や鉄鋼労働者をドイツから呼び寄せ、船賃を提供する代わりに長期の雇用契約を取り付けた。英国本国の投資家にも呼びかけ、高炉や製鋼に使う大量の木炭をつくるため森林8000ヘクタールを購入。さらには水車を動かすための堰堤や貯水池、運河の建設資金も募った。 輸送手段の欠如が、様々な面で事業の進展を阻んだ。 森林の伐採が進むと製鉄所から森林までの距離が伸び、木材を運ぶ道路も、運搬用の牛も毎年増やさなければならなかった。完成品の棒鉄を製鉄所から運び出すにも、逆に鉱石を製鉄所に運び込むにも、そのつど荷車で運ばなければならないのだ。冬には運河や川が凍結して道路は通行不能になった。「米国の鉄は高くつきすぎる」とハーゼンクレヴァーは嘆いた。外洋航海はあてにならず、棒鉄をのせた船がいつデプトフォードやポーツマスの海軍造船所に到着するかわからない。アメリカン社は利益も配当も出せない状態で、大西洋を越えての不安定な資材納入は帝国海軍からも信用されなかった。 ロンドンの共同出資者たちは早々に堪忍袋の緒を切らし、稼働開始から4年目の1768年、製鉄所の閉鎖を命じた。ハーゼンクレヴァーは借金の責任を問われ、あやうく債務者監獄に送られそうになった。その後、鉱山は再開されたものの、鉄の売り先は近隣地域に限られた。工業品の長距離サプライチェーンという考え方はすでに芽ばえていたのだが、実現を可能にする様々な技術開発が進んでいなかったのだ。● 貿易の富は限られた人たちに 物資の長距離輸送は、人類文明のごく初期から行われていた。4000年前、アッシリア人は何百キロもの距離を移動し、現在のトルコに商業植民市を建設した。紀元前1000年頃にヒトコブラクダが家畜化されると、香料を積んだキャラバンがアラビア半島を行き来するようになった。その1000年後には、イエメン沖の小島ソコトラが、インド=ローマ間の海上貿易の中継点となった。さらに1000年後の11世紀初めには、北欧の探検家たちが北米に到達するのだが、残念ながら交易には至らなかった。 一方で、1271年にヴェネツィアを出発したマルコ・ポーロと父・叔父の一行は、シルクロード経由でかの有名な中国への旅に出て、こちらは交易に成功して富を得た。16世紀初頭には大西洋を横断する奴隷貿易が始まり、1750年以降は本格的な巨大ビジネスへと成長した。英国商人が銃やヤカン、織物、靴などをアフリカ沿岸に領有する貿易拠点へと運び、これらの品物を奴隷と交換し、奴隷をアメリカ大陸へ運んで売り、帰りの船に砂糖とタバコを積んで英国に帰るという三角貿易だった。アフリカの奴隷貿易はきわめて収益性が高く、高度にグローバル化されていた。3万6000回を超える大西洋横断航海によって推定1250万の人々が奴隷として拉致されたほか、南北アメリカ間でも50万の奴隷が海上輸送された。 遠距離で交換されたのは交易品や奴隷だけではなく、病気も輸出された。1334年に中国で大流行した黒死病(ペスト)は1346年に黒海に達し、7年間でヨーロッパの人口8000万人のうち4800万人の命を奪ったとされる。思想も輸出された。仏教は2000年前にインドから中国に伝わり、610年頃にアラビア半島で興ったイスラム教は713年にスペインまで広まり、1540年代にはポルトガルの司祭がキリスト教を日本にもたらした。遠距離交易は経済的な混乱も引き起こした。1530年代からは中南米のスペイン植民地から銀が流出し、ヨーロッパに150年にわたる物価高騰をもたらした。大変動をもたらしたこの出来事は歴史上、「価格革命」と呼ばれている。さらに国家権力の強大化も促された。様々な国が貿易を通して支配を拡大し、植民地や属国から富を集め、税を吸い上げた。 今日でもジェノヴァやアムステルダム、イスタンブルなどに観光に訪れるとわかるが、それぞれが往年の国際貿易の中心地として、コンピュータやコンテナ船の時代のはるか前から、人とモノの交流によって莫大な富を生み出していた。交易がもたらした果実は、ヨーロッパの城館や邸宅を飾るペルシャ絨毯や中国製陶磁器にも見てとれる。だがこうしたイメージそのものが、19世紀の産業革命以前の国際経済が、今日考える「グローバル化」とは程遠いものだったことを証している。 北ドイツの名高い商業都市同盟「ハンザ同盟」は、15世紀末まで300年にわたってバルト海沿岸の貿易を独占し、リューベックやハンブルクなどの都市に大きな繁栄をもたらした。それでも現代の尺度からすると、貿易の規模はきわめて小さい。ハンザ同盟の商人たちが所有する船を全部合わせても、年間の貨物量は21世紀の中型コンテナ船1隻にも満たない。ハンザ同盟が歴史から姿を消してかなりたっても、長距離貿易の中身は相変わらず贅沢品と奴隷、あるいは凶作時の食糧暴動を避けるための小麦といった必需品がほとんどだった。 19世紀末になっても、ヨーロッパの平均的な家庭にある輸入品と言えばせいぜい小袋入りの砂糖、ときたま手にする銀貨くらいのものだった。当時もっともさかんに取引されていた交易品の一つである紅茶でさえ、1人当たり年間消費は数オンスに過ぎなかった。当時の世界一の経済大国とされる中国は主に銀貨と黒胡椒を輸入。インドや日本は輸入らしい輸入すらしていなかった。ほとんどの国で、国際経済の重要性は非常に低かったのだ。 貿易に大きな利害を持っていたのは輸出入を扱う商人、輸送を請け負う船員、荷車業者や荷造り業者、輸出用のガラスや織物などの高級品をつくる職人、綿花畑や銀山で強制労働させられていた人々、そして貿易を税収源の一つと見ていた支配層だった。ところがヨーロッパの多くの都市では11世紀から18~19世紀まで、多くの商品の生産がギルド(職業別組合)の手に握られ、輸入障壁を設けることで組合員の製品価格が維持されていた。ほとんどの国で国民の大多数が農業に従事し、貨幣経済も浸透していなかったから、広い世界のことなどどうでもよかった。国際的経済活動がきわめて小規模だったことを示す指標の一つは、1820年に至っても世界の全船舶を合わせた輸送力がたった590万トンほどだったことだ。2018年の数字はその322倍にも達し、しかも航行速度はずっと速く、年間航海数もはるかに多いのである。● かつて貿易を妨げたもの それにしても、前近代の貿易はどうしてそんなに低調だったのだろう。最大の理由は、取引に時間と経費がかかったことにある。(続きは書籍『物流の世界史』でお楽しみください!)

マルク・レヴィンソン

最終更新:ダイヤモンド・オンライン