SNSで「ネタ化」を繰り返す記憶喪失社会で「マジレス」する 音楽批評の現在地を探る特別対談・後編
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2コメント2件カンパニー社代表の工藤遥氏と音楽批評家の細田成嗣氏
2017年に工藤遥氏が設立し、マイナーな音楽を対象にこれまで計8冊の書籍を刊行してきた気鋭の独立系出版社、カンパニー社。その活動内容と音楽批評の現在地について、工藤氏と筆者で語り合った。対談記事後編では、カンパニー社の最新刊でありフランスの偉大なる歌手コレット・マニーの足跡を精緻に綴った中村隆之著『魂の形式 コレット・マニー論』の注目すべき箇所について掘り下げた。【写真】カンパニー社の書籍『魂の形式 コレット・マニー論』 話題はさらに、今の時代の音楽批評や出版の役割へと広がった。スマートフォンとSNSが普及し、誰もが音楽について自由に情報発信を行うことができる昨今。目まぐるしい速度で音楽にまつわる言葉が日々大量に生産され、それは情報が過飽和状態にあるとも、語ることに対する人間の欲望が可視化された状態にあるとも言うことができる。そうした時代の音楽とテキストの関係性、および音楽批評の可能性について議論を交わした。そこから浮かび上がってきたのは、ほとんど記憶喪失に陥ったインターネット社会の中で、記憶を丁寧に積み重ねていくための経路をいかに確保するかという問いだった。(細田成嗣)■コレット・マニーを通して見えてくるもの細田:昨年末に仏文学者でもある中村隆之さんが執筆した『魂の形式 コレット・マニー論』が刊行されました。翻訳書やディスクガイドの本を除くと、カンパニー社初の単著でもありますね。カバーがついた本というのもカンパニー社では初めてで。それとコレット・マニーといえば知る人ぞ知る存在のフランス歌手で、これまで大里俊晴さんを除くとほぼ誰も取り上げてこなかった。そうした対象をテーマに一冊の本として出版するというのもカンパニー社ならではだと思います。工藤:コレット・マニーのようなマイナーな対象について学術レベルで書けるというのは驚きでもあって、それが書籍になったのは画期的なことだと思っています。もちろん細田さんが編者を務めた『AA 五十年後のアルバート・アイラー』にも学術レベルの論考は収録されていますが、書籍としてはいろいろな書き手や語り手のテキストを編纂したものなので、またちょっと違う。それとコレット・マニーの本はカンパニー社を設立した当初から出そうと思っていて、もともとは翻訳書を出そうと考えていたんです。けれど母国フランスでもコレット・マニーはそんなに有名ではない。世間的なイメージとしては活動初期の1963年にリリースしたヒット曲「メロコトン」を残したスター歌手であったり、政治的な歌を歌った人であったり、つまり60年代のまま止まっているんですね。けれど今回、中村さんが、フリー・ジャズとコレット・マニーの関わりを大きく取り上げて書いてくださった。それはおそらく世界で初めての試みでしょうし、やはりフリー・ジャズとの関係性を掘り下げた大里さんの功績を受け継いでいるという点でも唯一無二だと思います。細田:コレット・マニーは1997年にこの世を去りますが、その時にフランスのメディアが追悼番組で流したのも「メロコトン」を歌う映像ばかりだったみたいですね。あと『魂の形式 コレット・マニー論』が面白いのは、一人のミュージシャンの評伝であると同時に、フランスのフリー・ジャズの流れもわかるように書かれているところだと思いました。なぜ左翼的なものや反体制的なものがフリー・ジャズと結びついたのかもわかるようになっていて。工藤:そうなんですよ。僕がこの本の中で一番面白いと思ったのもフリー・ジャズのミュージシャンとの関わりについて書かれている箇所でした。特に1970年代前半以降、コレット・マニーは右派だけでなく左派からも攻撃されていたらしいんです。そうした内ゲバやらなんやらを経験して精神的に参ってしまった彼女は「政治主義」と決別するわけですが、けれどその後に作ったアルバムがフリー・ジャズ・ワークショップとの共作なんですよ。コレット・マニーをみんなでもう一度立ち直らせようと手をとって、後ろから象が鼻で優しくお尻を支えているイラストがジャケットです。この共作から言えるのは、つまり、フリー・ジャズ・ワークショップの面々はもちろん政治的には左派だと思いますが、言説レベルの「政治主義者」ではなかったということですよね。その辺りは特に重要だと思っていて、一般的にはフリー・ジャズと左派的な思想の結びつきってステレオタイプなイメージで語られがちじゃないですか。中村さんはそうした見方とは全く異なるあり方を丁寧に検証しているんです。細田:もともとコレット・マニーが左派と接触したのは、非商業的な音楽をやるための受け皿となったのが資本主義に批判的な団体だったというだけで、政治的な自由と革命が音楽的なそれと必然的に結びついていたわけではないんですよね。工藤:そう。中村さんに倣って言えば、コレット・マニーは政治的ではなく人間的。周縁的存在の声を代弁することと音楽的探求を進めることの両立可能性を生涯に渡って模索し続けた人ですね。だからフリー・ジャズというものを考える上でも『魂の形式 コレット・マニー論』はとても重要だなと思っていて。細田:フリー・ジャズだから反体制的な思想を持っているとは限らないし、政治的に左を向いていたとしても音楽的には右を向いてマイノリティを踏み潰すということもあり得る。そういった面も含めて『魂の形式 コレット・マニー論』は一人のミュージシャンの評伝を超えた射程を持っていると言えます。それとこの本を読んで初めて知ったんですけど、コレット・マニーってバイセクシュアルなんですよね。その意味でも今読まれる価値がある。工藤:普通はミュージシャンの評伝というと、そのファンが主に読むじゃないですか。けれど、もともとコレット・マニーのファンだという人はおそらくほとんどいなくて。とはいえ、ファンではない人にとってもいろいろと引っかかる部分があるんじゃないかと思っています。細田:自分が抱いていたミュージシャンへの思いが言語化された、といった本とは異質ですからね。もちろんコレット・マニーという人物がなぜあのような唯一無二の音楽を生み出したのかがわかるようにはなっています。けれど同時に、コレット・マニーを通して今考えるべきアクチュアルな問題も提示されている。そう考えるとこれまでカンパニー社が出版してきた他の本ともやはり共通しています。取り上げる対象はマイナーですが、問われている問いは決してマニアックなわけではなく、むしろ人類共通の課題が摘出されていると言ってもいいんじゃないでしょうか。■「ネタ化」が蔓延る記憶喪失社会の音楽言説工藤:今は紙雑誌や書籍だけでなくウェブメディアやSNSにも音楽の言説は溢れています。インターネット用語で「ネタ」ってあるじゃないですか。パフォーマティヴにその場を盛り上げるというような意味の。SNSなんかでは毎日のように新しい「ネタ」がバズっていますよね。けれどそうした「ネタ」で終わらないための方途を探らなければいけないとつねづね思っているわけです。細田:SNSは本当に玉石混交で、中には音盤のレビューやライヴのレポートを精力的に投稿し続けているアカウントもあって、下手な批評家よりも紹介者としてよほど優れている場合もあるし、鋭い着眼点にハッとさせられることもある。これぞ誰もが批評家になれる時代にメディア環境の変化に伴ってアップデートされた音楽批評ということになるのかもしれませんが、一方では構造的な問題点もあります。というのも、ウェブメディアやSNSで発信される情報というのは、基本的に蓄積されることがない。TwitterもFacebookもデザインからして投稿されたテキストはどんどん流されていく。工藤:そうなんですよ。それこそ「ネタ」で終わる可能性が高い。細田:ものすごくバズったことで大勢に注目される「ネタ」があったとしても、1週間も経てば誰も覚えていないわけですよね。そして忘れた頃にまた同じことを繰り返す。それこそ「音楽批評は必要か否か」みたいな話題がいい例ですけど、定期的にSNSで話題になるんですよ。すると一家言を持っている人たちが出てきて「音楽批評とは~」と滔々と語り始める。しかし語っている内容は過去の反復なので特に生産的な議論に発展することはない。そうしたことが延々と繰り返されている。工藤:インターネット上の言説空間は誰もが記憶喪失に陥っている感じはありますよね。記憶を積み重ねることができず、「ネタ」が話題になるたびに振り出しに戻っている。僕はTwitterを始めたのはここ数年なんですが、10年以上やっている人は同じ景色を何回も見ているんじゃないかな。細田:もちろんSNSをコミュニケーションのためのツールとして使用しているのであれば、記憶喪失状態でもいろいろな人とのやりとりが楽しめるからそれでいいのかもしれない。「ネタ化」するというのは要するにコミュニケーションの道具と化すということですよね。けれどSNSには情報発信・共有・収集ツールとしての側面もあるわけで、その場合は同じ情報が数ヶ月~数年おきに「ネタ化」によって反復され続けていて、それはちょっと不毛に感じます。しかもことはSNSに限った話ではない。ウェブメディアも有料サイトを除くと基本的には広告費で稼いでいるので、とにかく瞬間風速的にPV数を稼ぐことが目的になっている。そのためには「ネタ」として消費されるのが望ましく、しかもできるだけ早く消費されて翌日には別の記事で稼がなければならず、構造的に人々の記憶に残らないようなサイクルを生んでいます。そして忘れた頃に同じような記事がまたバズる。SNSも多くのウェブメディアも「ネタ」を生むことが勝利の法則であるような世界になっているわけですよ。工藤:そもそもウェブ記事というもの自体が、記憶とあまり結びつかないということもあるでしょうね。結局インターフェースはスマホかパソコンなので、同じ画面を見るわけじゃないですか。それに対して紙の雑誌や書籍は一冊一冊がモノとして違う形をしているので、身体的な側面もあるし、記憶と結びつきやすくなっている。そもそも紙媒体に触れたことがないという若い人はまた違う記憶術を編み出しているのかもしれませんが、実際にスマホよりも紙の方が記憶に関わる脳の領域が活発化するという研究結果もありますからね。経験を個別化していかないと記憶するのは難しい。細田:例えばライナーノーツは単に音にテキストが付随しているというだけではなくて、アルバムと物理的に紐づいた文字情報であるという点で経験を個別化するのに一役買っていましたよね。今はアルバム自体が形骸化している時代で、それに伴ってライナーノーツの従来の役割は終わりつつありますが、サブスクのアルバム・ページに書いてある解説とか、あるいはオーディオ・コメンタリーといったものは、その意味で従来のライナーノーツを代替することは難しそうです。それで言うと、ちょうど今、東京都現代美術館でクリスチャン・マークレーの個展をやっていますけど、マークレーは音が音以外の視覚文化や文字情報と密接に結びついているところに着目して作品制作を行っているアーティストじゃないですか。それは視覚的な情報が音を喚起するということではありますが、そもそも音が視覚的な情報と一緒に記憶されているということでもあって。それを踏まえると、かつてあったようなライナーノーツを読むという行為は、音楽の解説を頭で理解するだけではなくて、テキストと一緒に音を記憶する行為であったとも言えます。工藤:そう考えるとやっぱり、いかに「ネタ化」に踊らされずに記憶喪失を回避していくかが大事な気がしますね。もちろん「ネタ」そのものが悪いとは思わないです。きっかけとしては役に立つこともある。最近、TikTokで書籍を紹介している人が書評家になじられて活動を休止しちゃったという事例がありましたけど、いろいろな入り口があっていいと思うんですよ。問題なのは「ネタ」で終わってしまうということであって、だからTikTokで活動する紹介者ーーBookToker (ブックトッカー) と呼ばれているみたいですが、出版社がこぞって彼らを頼みの綱とするのは危うい。批判されるべきなのはそっちの方じゃないかと。■文脈を整理する「マジレス」の作業工藤:音楽批評という観点からは確実に漏れてしまいますが、僕にとって重要な一冊として『モンド・ミュージック』というディスクガイド本があるんですよ。高校生の頃に古本屋で見つけて買って読んだんですが、良い/悪いという価値判断とは別の観点からレコードを紹介していて。レコードというフォーマットでこういった作品が出ている、ということ自体を面白がるような聴取態度がこの本にはあって、読んだ時にものすごい意識の変化があったんですね。音楽はただひたすら音だけを聴いて楽しむものではないことがわかったというか。この本はシリーズ化されていて第3弾まで出ているんですが、最初に出たのが1995年で、いわゆるDJ文化と並行関係にある。つまりいろいろなレコードを掘っていく中で、異質なものや変なものと出会った時にどう楽しむかという態度がこの本にはあるんです。細田:LPレコードが登場したのが20世紀半ばなので、1990年代には約半世紀近くの録音物が蓄積していたということもあるでしょうね。その間、例えばジャズであれば「ジャズとして良いか悪いか」という基準をもとに既存のジャズ・ジャーナリズムが語ってきた「正史」があり、そこから漏れるレコードは「無価値」なものとして無視されてきた。そしてそうした「無価値」なレコードが膨大に溜まっていたと。けれど「正史」はあくまでも特定の価値判断をもとに語られているだけであって、基準を変更すればまた別の系譜を辿ることができる。DJ文化におけるレアグルーヴは「踊れるか否か」という基準でジャズ史を解体/再構築し、それまで「無価値」だったレコードに新たな価値を与えたわけですし、モンド・ミュージックもいわば「変か否か」という新たな基準を設けることで、これまで無視されてきた過去のレコードを再発見した。ただ、DJ文化の場合は、テキストと結びついて「正史」を形作ってきたレコードからテキストをいちど剥ぎ取って、身体感覚に委ねることで従来の序列を崩したのに対して、モンド・ミュージックの場合はテキストとレコードの新たな結びつきを生み出したという違いはあるかもしれません。工藤:DJ文化にしてもモンド・ミュージックにしても、これももう繰り返し言われていることだと思いますが、歴史的文脈を捨象してしまうという点は留意する必要があると思っていて、それこそサンプリング・ネタとして「ネタ化」して終わってしまう可能性があるわけですよ。『モンド・ミュージック』もレコードをある種の「ネタ」として集めただけとも言える。実は今、カンパニー社でムード音楽の本を作っているんですが、ムード音楽って音だけを聴いてすごく良いかというと、別にそうでもないのがほとんどなんですね。9割ぐらいのレコードが駄作というか惰性と妥協で作られている(笑)。けれど良い/悪いと判断するのではなくて、まずは一回面白がってみる。そしてそこで終わらずに、なぜそれらのレコードが作られたのかとか、ムード音楽のレコードが無数に作られたということは一体なんなのかとか、そういった文脈を示していくことがすごく大事だと思うんです。つまり「ネタ」としてレコードを集めた『モンド・ミュージック』に対して、あらためてきちんと文脈を整理していく作業。いわば「ネタ」に対して「マジレス」していくのがカンパニー社の活動なのかもしれませんね(笑)。
細田成嗣
最終更新:リアルサウンド