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若者が描くスーダンの未来 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

ゲベル・バルカルから周囲を見下ろす若者。左のアフメド・イブラヒム・アルカイルは独立時のスーダン国旗、右のアワブ・オスマン・アリアブドは今の国旗を肩に掛けている。スーダンでは2019年の革命で民主化移行への期待が高まったが、21年秋のクーデターで先行きが読めなくなった。(PHOTOGRAPH BY NICHOLE SOBECKI)[画像のクリックで別ページへ]この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2022年3月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。

クーデターで先行きが不透明になったスーダンでは、若者たちがより良い未来を求め、遠い過去に目を向けている。

 2021年10月、スーダンの新たな革命はもろくも崩れようとしていた。

 オマル・バシルの30年に及ぶイスラム主義の独裁政治に幕が下りたのは2019年4月。この革命からわずか2年半で起きた急展開だった。その間、軍人と文民で構成された暫定的な統治機関「統治評議会」は、抑圧、ジェノサイド(集団虐殺)、国連の制裁、南スーダンの分離独立といった苦難続きのバシル政権時代とは異なる道を歩み始めていた。

 だが計画されていた民政移管を数週間後に控えた2021年10月25日の正午頃、統治評議会議長のアブドル・ファタハ・ブルハン中将が暫定政権の解散を宣言し、文民出身の首相を自宅軟禁下に置いた。国民はこの動きをクーデターと見て、首都ハルツームなどで大規模な抗議デモを繰り広げた(その後、首相は辞任し、スーダンには文民の指導者がいなくなった)。

 いかにも21世紀の政変らしく、市民がソーシャルメディアを通じてその模様を現場から“生中継”で伝えた。私は米国にいて、コンピューターの画面に映し出される現地の状況にくぎ付けになった。スーダン情勢を追い始めたきっかけは、ナショナル ジオグラフィック協会の支援を受けてこの国で発掘調査を行う考古学者たちの活動を取材したことだった。初めて現地を訪れたのはバシル政権が倒れる数カ月前、バシルが弾圧を強めていた時期だ。調査隊は国が大混乱に陥る事態に備え、エジプトに向かう脱出ルートをひそかに設定していた。

 2019年春にソーシャルメディアに投稿された画像では、通りや広場を埋め尽くす若い男女が、平和的なデモに徹しつつ、新しい時代の幕開けを求めて果敢に声を上げていた。なかでも印象的な動画があった。スーダンの伝統的な白い長衣をまとった女性が車の上に立ち、暮れなずむ空を指さして、「私の祖父はタハルカ、私の祖母はカンダカの一人!」と叫ぶと、大勢の若者たちがその言葉を復唱するというものだ。

 これには正直驚いた。タハルカは古代エジプトを支配したクシュの王で、カンダカはクシュの王妃や王の母親を指す一般的な名称だ。彼らは大胆にも自分はその血を引くと宣言したのである。タハルカとその一族はスーダン北部を拠点に、最盛期には現在のハルツームから地中海沿岸に及ぶ一大帝国を築いた。

 ヌビアとも呼ばれるクシュ王国は、往時には隆盛を極めたが、今ではおおむね古代エジプト史の脚注にその名をとどめるにすぎない。スーダン国内でも、バシル政権時代に育った世代はクシュの歴史をまともに教わっていない。クシュの遺産については、平均的なスーダン人はおろか、考古学者の間でもあまり知られていないのだ。それがなぜ突然、ハルツームの路上でデモ参加者が叫ぶスローガンになったのか。

スーダン北部にある世界遺産の聖なる山、ゲベル・バルカルの麓で発掘調査が進む。ここに眠るのは、アフリカの偉大な文明の痕跡だ。クシュあるいはヌビアとして知られる古代の王国は長年、隣国エジプトの属国にすぎないと伝えられてきた。(PHOTOGRAPH BY NICHOLE SOBECKI)[画像のクリックで別ページへ]

 2020年1月にスーダンを再訪したとき、革命後の首都は希望に沸き返っているようだった。わずか1年前まで、ズボンをはいた女性は公衆の面前でむち打たれたものだが、そんな過去など嘘のように、若者たちは音楽フェスティバルに集い、カフェをにぎわしていた。大通りや地下道など、街の至るところで、路上アーティストが描いたクシュ王国の王や神々の像、そして現代の革命に命をささげた人たちの肖像を目にした。革命のさなかやその後に殺されたデモ参加者は推定250人にのぼる。

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