都市はコンピューターではない:スマートシティ、危険なメタファー、よりよい都市の未来
これはありきたりな表現かもしれないし、わたし自身も使用したことがあるけれど、科学者や哲学者は脳の仕組みを説明する際、その時代の最先端技術になぞらえる傾向がある。
ギリシャの作家は、脳は水時計のように機能すると考えた。中世ヨーロッパの作家は、思考は歯車のようなメカニズムで働くと示唆した。19世紀、脳はテレグラフのようなものになり、その数十年後には電話網のようなものになった。
それから程なく、当然のことながら、脳はデジタルコンピューターに見立てられ、脳のように働くコンピューターをつくったり、それと対話したりできるのではないかと考えられるようになった。比喩はさておき、脳の仕組みはいまだに解明されていないので簡単ではない。科学が面白いのは、例えばそういうところだ。
もちろん、適切なメタファーがないからといって脳の研究は止まったりしない。しかし、地図と地形を混同したり、適切な喩えと実用的な理論を勘違いしたりすることはある。全体を観察するには大きすぎる、あるいは小さすぎる規模で作用する複雑なシステムでは、こうしたことが起こりやすい。
これは、電気化学的なゼリー状のネットワークに織り込まれた約860億個の細胞から個人の気持ちを生成する(と研究者が考える)思考の塊である脳にも当てはまる。そして何百万もの個々の気持ちが集まってコミュニティを形成する、緊密なネットワークである都市にも当てはまる。
わたし自身もそうだが、都市について書く人々もまた、現在の科学に組織的なメタファーを探す傾向がある。都市は機械であり、動物であり、エコシステムである。あるいは都市はコンピューターのようなものかもしれない。都市計画の専門家でありメディア研究者の作家シャノン・マターンは、これを危険な発想だと考える。
都市データのパノプティコン
2021年8月に発売されたマターンの新刊『A City Is Not a Computer(都市はコンピューターではない)』[未邦訳]は、「Places Journal」に寄せた秀逸な記事「A City Is Not a Computer: Other Urban Intelligences」を(修正や更新を経て)まとめたものだ。そのなかでマターンは、この特定のメタファーが20世紀の都市設計、都市計画、都市生活をいかに台無しにしてきたかに取り組んでいる。
それは個々人をあたかも小さな欠片のひとつのように監視したり、住民のために都市機能を持続させるのに必要なワイドスクリーンのデータを監視したりと、あらゆる規模で行なわれる。情報が都市ネットワークを行き交う手段について、マターンは言う。多くの都市が構築しようとしているパノプティコン式展望監視システムのような中央集中型ダッシュボードよりも、公共図書館をノード(節点)にしたほうがいいだろう、と。問題は、追跡用に選んだ指標が達成目標になってしまうことだ。それ自体がメタファーと化し、しかもそれはたいてい間違っている。
最初のふたつの記事は、掲載時に最も反響のあったもので、いまでも反響は大きい。「シティ・コンソール(City Console)」は、都市データのパノプティコンとして設計された情報ダッシュボードとコントロールルームに関する放縦な歴史である。これらの情報ハブでは、自治体システムの機能性、犯罪の取り締まり率、子どもたちの教育水準に関する情報などを収集する。いわゆる管制センタ―だが、ただし高速道路や下水を監視するためのものだ。
マターンの本のなかでわたしが気に入っている例は、1970年代に当時チリの指導者だったサルバドール・アジェンデが、カーク船長も満足するであろうボタン付きの椅子や、赤いランプが点滅するスクリーンが壁一面に設置された「オペレーションルーム」を備えた「サイバーシン(Cybersyn)計画」を推進した話だ。当然、どの都市もそのスクリーンを埋めるようなリアルタイムのデータをもっておらず、代わりに手書きのスライドを表示していたという。
間抜けな話だが、現在米国の多くの都市が、法執行機関やその他の都市データをコンプスタット(CompStat)プログラムで収集して表示するという、サイバーシンと直結した方法を採っている。これらはそもそも政府が説明責任を果たすためのものだが、意味のない逮捕を正当化したり、乗客数の代わりに交通機関のダイヤを強調したりして、誤解を招く数字を強調することがよくある。
どの都市もスマート化に失敗している
本のタイトルにもなった次の記事でマターンは、シリコンヴァレーの大企業が「スマートシティ」を建設するという野望に警告を発している。この記事が掲載された当時、アマゾンはまだニューヨークに都市規模の本社を建設する計画を進行中で、グーグルも類似の計画をトロントで進めていた(Sidewalk Labs[サイドウォーク・ラボ]という関連会社が請け負っていたグーグルの計画は、木製の高層ビル、光る敷石で舗装され瞬時にデザインを変えられるた街路、自律走行車、地下へと続くトラッシュチューブなどが目玉になる予定だった)。
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いまでは、当然ながらスマートシティ、つまりテクノロジーを駆使した大規模プロジェクトの大半は失敗し、あるいは規模を縮小している。ニューヨークのハドソンヤードでは、開発者が約束したような(もしくは脅しかもしれないが)レヴェルのセンサーや監視技術はまったく導入されなかった。都市はいまでもあらゆる種類のデータを収集し共有しているものの、それらは必ずしも「スマート」ではない。
先月マターンと話した際、いまのところどの都市もスマート化に失敗しているように見える理由を尋ねてみた。彼女はその理由を、都市づくりの最も重要な部分を見逃しているからだと考えている。「膨大な計算やデータを駆使するやり方で都市というものを考えると、全知全能という誤った感覚をもってしまいます」とマターンは言う。
都市の責任者はナマの現実を目にしていると思っていても、実際には自分たちで選択したフィルターによって見えるものが決まってしまう。「すべてがコンピューター化され、都市における最も詩的で儚い側面までデータポイントで操作できるようになったら」と彼女は続ける。「わたしたちはそれがメタファーであることに気づかなくなります」。
種をまき、可能性を示した
それはよくない、というのがポイントだ。しかしゲームは終わっていない。「本当に影響力のある計画は実現しませんでしたが、そうした都市は種をまき、可能性を示しました」とマターンは言う。「いくつかのテック企業は、学んだことを別のところで、より目立たない形で実践するかもしれません」。
ロボットカーに対応した再構成可能な光る舗道をつくるというSidewalk Labsの約束が実現しなければ、徒歩の人や自転車を使う人はほっとするだろう。しかしその代わり、携帯電話に自動的に信号を送り、生体認証で住民を追跡するような社宅をグーグルやフェイスブックがシリコンヴァレーに建設するかもしれない。といっても、住人たちは気にしない可能性もある。結局のところ、こうした住宅を建設しているところは他にないからだ。19世紀の労働者にとってそうであったように、企業城下町は明日のいい選択肢になるかもしれない。ただしいまなら、すべての建物の壁にAlexaの配線が通されるだろう。
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マターンは大学で化学を専攻したのちメディア研究で博士号を取得、建築や人類学の分野でも多くの仕事に取り組んできた。本書は、さまざまな学問分野でアーバニズムというアイデアを変化させ、すべての住民をサポートする街づくりをする方法を論じている。
彼女がとくに興味を抱いているのは、住民が資源、教育、仕事、インフラについての情報を学び、つながることのできる場としての公共図書館だ。マターンが論文を書いた1990年代と現在では、図書館はまったく異なる場所になっている。空間的にも、書庫や蔵書目録は広場のような公共スペース、カフェ、興行施設、インターネットアクセス、デジタルコレクションに取って代わられている。
物理的なメディアを失うのは残念だが、いまでは「図書館は単に情報や知識を消費するだけの場所ではなく、地域コミュニティが独自のコレクションを構築し、それを示す場所でもあります」とマターンは語る。これは、「スマートシティ」が住民からデータを吸い上げるために利用するカメラ、スピードセンサー、Bluetooth位置センサーに対する一種のアンチテーゼとなっている。
公衆衛生の歴史は都市の歴史でもある
マターンがこれらの記事を執筆し1冊の本にまとめている間に、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の大流行に見舞われた。これはかなりの皮肉で、パンデミックは都市がなければ発生しない。膨大な数の人々が病気を媒介できる距離に住んでいなければ、ウイルスやバクテリアはたいして活動できないのだ。
公衆衛生の歴史は、都市の理論と設計の歴史でもある。ルネッサンス期の貿易で必須要件とされた検疫、病気の地元民を(名目上)移民から隔離するためのバリアとして築かれた「防疫線」、ジョン・スノーが作成したロンドンの公衆井戸付近のコレラの地図、19世紀にナポレオン3世とオスマン男爵が実施したパリの再設計(コレラやその他の病気との闘いを容易にし、必要なら反抗的な貧困層を鎮めやすくするため)、米国の住宅事情改善につながった20世紀初頭の公衆衛生運動、ひどく人種差別的な、「荒廃」と戦うための「スラム街撤去」。都市理論と公衆衛生の歴史は固く結びついている。
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20世紀初頭、結核とスペイン風邪というふたつの感染症の脅威と、個人で建築家を雇えるほど裕福な人々の健康意識が相まって、新たな風潮が生まれた。建築史家のビアトリス・コロミーナが書いたように、モダニズムの誕生である。素材を活かしたシンプルなつくり、室内外の風通しのよさ、採光、換気、掃除のしやすい平らな表面。それは単に美しさを求めただけではない。疾病対策だったのだ。
COVID-19のような病気の空気感染経路に関する理解が深まれば、再びモダニズムのようなラディカルな移行が起こる可能性はある。「(今回のことで)より人道的な職場環境をつくり、社会的距離を保てるよう、職場やオフィスについて再考したり、柔軟なスケジュールを模索したりして、わたしたちはかなり急激な変化を経験してきました」とマターンは言う。「希望はたくさんありましたし、わたしたちは公園や公共スペース、代替交通手段の必要性に気づきました。けれどその後、インフラ法案をめぐる憂鬱な議論を目の当たりにし、そもそもインフラとされるものを拡充したいという欲求がそもそもないことが露見しました」
都市のメタファー的危機
ここへきてわたしは、都市と公衆衛生の表裏一体の歴史が独自のメタファー的危機を迎えているのではないかと思うようになった。わたしたち自身の個人的ダッシュボードがこの問題を引き起こしているのだ。
米国人は2020年の夏、TwitterやTikTokやFacebookで仲間を探していないときは、それぞれのウェブブラウザーをCOVID-19の死者数、山火事の発生場所、大気汚染レヴェルなどに切り替えた。ソーシャルメディアは個人の生活におけるダッシュボード以外の何者でもない。いつも通り、集めたデータがあなたの知識を決定する。サイバーシン計画が、清潔できらびやかなロッデンベリー風ユートピアにメタファーの針を向けていたとすれば、2020年はオクティヴィア・バトラーやウィリアム・ギブスンの作品のような破綻に向けてダイヤルを回したことになる。しかし世界の終わりを回避したいのなら、SF的ディストピアはかなりまずいメタファーだ。
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都市のメタファーに関するマターンの巧みな分析は、都市が誤った方向に進んだ場合、想像力の欠如だけでなく、(災害に対する防波堤としての)都市の主要な機能が果たせないことを示している。人間は、経済破綻、自然災害、人間の悪意や臆病さなど、失敗に対抗する要塞として都市を建設し、都市が機能している間は、城壁がそうしたものを排除してくれる。建築家ミース・ファン・デル・ローエが述べたように、家が「生きるための機械」であるなら、都市はそれらの機械が社会に連結される場所である。都市とは、協力して生き延びるための機械なのだ。
20年の夏、気候変動と感染症という災害により、こうした機械が故障する可能性が示唆された。この1年で世界中の経済的、人種的不公平がかつてないほど明白になり、とくに米国ではそれが切迫した、致命的な結果をもたらすこととなった。警告灯はすべて赤色に点滅している。都市に関する話は、もはや監視カメラや株取引といった目に見えないデータの話では済まされない。それは目に見え、人間の尺度で構築された、よりよい何かでなければならないのだ。
構築環境はもう偶然ではありえない。なぜならそれは、大惨事を引き起こすからだ。わたしたちはメタファーのなかで生きてはいない。「構築環境は非常に多くの組織や機関の産物であり、たいてい目に見えないところで動いています」とマターンは言う。「その責任を特定するのは難しい」。彼女が書いているように、都市は単なるコンピューターではない。それでもわたしは、今後もこのメタファーから安易なアイデアを展開してしまうかもしれない──正義と生存は、いまや都市がそのファームウェアを真剣にアップグレードすることにかかっているのだ、と。
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